大人の修学旅行3日目 in 京都
■大人の修学旅行3日目は、京都を散策。
京都を訪れるのは、中学校の修学旅行以来です。たぶん。中学生の時も思ったのですが、京都駅って大きい。改めてそう思います。それから、古都としてのイメージが強くて、割と近代的だなと感じたり。
(人物が映っているので、ぼかしてあります。)
私は、今回、3日間京都に宿泊していたのですが、街を歩いているとほとんど東京と変わらないなーと思ったり、やっぱり京都だと思ったり。
お店の店員さんで、標準語を話しているのにどこか京都風だったりすると、ここは東京じゃないんだなとふと気が付いたりしました。
■私は、ずっと標準語を話す地域やコミュニティーで生活していたため、周りに方言を話す人はほとんどいませんでした。なので、大学受験のために冬季講習で大学を訪れた時、地方からやってきた人が今まで聞いたことのないイントネーションと語尾の方言を話すのを聞いて大変驚きました。
大学には、上京してきた人がたくさんいたので、入学後はさまざまな方言を話す人がいて、日本は私が思っているよりもずっと広かったのだと思いました。
■京都では、いろいろな場所を訪れたのですが、観光地の王道「銀閣寺(慈照寺)」がとても気に入りました。
中学校の修学旅行では、金閣寺は訪れたのですが、銀閣寺は時間の関係でカット。なので、銀閣寺を訪れるのは今回が初めてです。
実は、今回も初めから銀閣寺を訪れようと思っていたわけではありません。別のところに行こうと思ってバスに乗ったところ、降りる停留所を間違えて乗り過ごしてしまい、ある停留所でたくさんの人が降りていくので、ここには何があるのだろうと思って降りたところ、銀閣寺にたどり着きました。
■受付のある中門を抜けると、五葉松と美しい枯山水のお庭がありましたた。よく見ると、作業中。まさに波紋をつけているところでした。
出来上がったものを見るのは、もちろん楽しいですが、そこに至るまでのプロセスは、興味深い。
じーーー。
手前側には、まだ模様が付いていません。
そこに、木でできた、砂かき用と思われる道具を使って、線を引き、
シャワーヘッドのついたホースで水をかけたり、
小さいほうきのような道具で、細部の砂を払っているような、形を整えているような、
再度、砂かき用と思われる道具で模様を丁寧になぞり、
素手で砂を払ったり、といった工程を組み合わせて、模様(波紋)を描いていました。
模様をつけるとどれくらい持つのか分かりませんが、気の遠くなるような作業です。真夏とか真冬とか想像しただけで、、、庭師の方には頭が上がりません。
初めから完成までの工程の動画なんてあったらぜひ見てみたいです。
■門をくぐると、銀閣寺本堂の前には有名な銀沙灘(ぎんしゃだん)が、
こういうタイプは、どうやって作っているのでしょうか?
どうやって作っているのか分からないところがミステリアスでいいのですが。ぜひ見学したいです。
■美しい庭園
美しい境内にうっとり。
どこのお寺もそうですが、ガイドブックなどに乗っているのは、建物そのモノが多いので、そこにある美しい庭の存在は、行ってみないと分からない。(私の意識不足かもしれませんが。)
絵にかいたようなこの庭園も、名も知れない多くの人によって手入れされ、生かされている風景なんだなーと思うと、名も知れない人々への感謝を思わずにはいられません。美しい風景をありがとう。
■5月の連休明けの平日で、人は少なめ、新型コロナの影響のためか海外の人もほとんど見かけません。
ここ何年かは新型コロナの影響で突然公演が中止になったり延期になったりしましたが、本来ならコンサートホールも劇場も、土日祝日は絶賛稼働中。そんなこともあって、私には祝日という感覚はほとんどありません。
年末年始もゴールデンウィークもお盆もクリスマスも世間の話。スペシャルな企画が増えて忙しくなるだけで、そうかと思えばいつの間にか終わっていて…。
なので、新型コロナの影響で劇場が封鎖されたときは、近所を散歩して季節の移り変わりを感じることができ、こういう時間が本当は大切なんだなと思ったりしました。
新緑の季節、見るものすべてが美しく、思わず立ち止まってしまいます。
そんな私の横を、タクシーの運転手さんにガイドされながら修学旅行生のグループが、何組も追い越していきます。
■私の修学旅行
なんというか、仕方のないことですが、当時、修学旅行という行事とビジネスの中で予定調和的な学習行動をとらされている感じがして、修学旅行中ずっと「私はここで何をしているのだろう?」という気持ちがありました。スタンプラリーみたいになっているなと。
修学旅行は、授業の一環なので、こなさなければならない行程がたくさんあるのは分かります。だけどあまりにも目まぐりしすぎて、中学生の時の京都・奈良も、高校生の時の沖縄も、その他の場所も学校行事で訪れた場所のことはほとんど覚えていません。
ここでは、それが悪いとかどうとかそういうことを言及したいわけではありません。土地勘のない集団をある時間内に動かすのは大変なことですし、時間に追われながら企画する学校も大変ですし、迎える側も毎日のように訪れる中高生に同じ説明をし続けるため、流れ作業的になることはやむを得ないと思います。
だけど、もっと時間をかけてじっくり見たかった。
説明を聞かなくても、見るだけで、その場にいるだけで受け取れる情報はたくさんあるのに、次々に進むので、とにかく忙しかった。じっくり見ているとおいていかれるし、なんだか大変だったな。
■作文
もう一つ、私は修学旅行などの後で作文を書くのが苦手でした。
何かをパッパッパッパと見て、形ばかりの体験学習をして、目まぐるしく過ぎる修学旅行に疲れ果てて帰ってからの作文は、本当につらい。パッパッパッパと見ただけで、教員や大人を感心させる文章を書いているクラスメイトはすごいなーと思っていました。
逆に、音楽鑑賞のように感動のあまり、言葉にならないこともあります。言葉にしたらつまらないものになることってある気がするんですよね。
とにもかくにも、うっすい印象をさらに薄く伸ばして書いても、原稿用紙はスカスカで。と思っていたけれど、最近、当時の文集を読み返したら、ほかの人の感想も割と薄かった…。
■余裕をもって見ること
私にとって、ネガティブな思い出として残り、またやりますと言われたら二度と行きたくない修学旅行ですが、だからと言って学校や先生を一方的に責められるかと言ったら、難しい問題だと思う。そうせざる負えない理由も分からなくないから。
それでも、私はいろいろなものを
余裕をもってゆっくりと見たかった。
せかされてほぼ通り過ぎるだけだったのに、見学したものについて作文で、いくつもの見解をパッと言えたらプロでしょ。
どんな価値のあるものでも、長い時間の中で失われたものはたくさんある。昨年まではあったけど、今は焼失して存在しないものだって。街並みも建物もモノも全てを残しておくのは現実的ではないけれど、偶然わけあって出会えたものと向き合う時間が欲しかった。
解説も大切だけど、事前学習も大切だけど、それ以上にその場で感じた「心の引っかかり」を大切にしたい。たとえそれが、学習目標と違っていても。
予定調和的に「日本の文化を大切にしなければならないと思いました」「海外の人たちにも伝えていきたいと思いました」と言っても、実際にその後、能動的に向き合えるかどうかは別のことだと思う。
それから、全部まとめて「感動しましたね」とか「素晴らしかったですね」とか感想を決めつけられるのも苦手でした。「感動しなかった」としても「感動しなかった」という感想があれば、なぜそう思ったのか考察することで、その時は分からなくても、それがいずれ意味のある何かにつながると思うから。
その人には、その人の答えがある。それを大切にしてほしいし、尊重したい。
そんなことを考えた、大人の修学旅行でした。
(完)